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2008年11月13日 (木)

時代

義兄が古くなった自宅の蔵を壊すというので、内部がどのようになっているのか蔵のなかに入ってみた。いろいろな雑品に交じって、大正時代の小学生が使用した「書き方手本」と「少年日本歴史読本」なるものが出てきた。

「尋常小学校書き方手本第四学年用下甲種」
明治43年発行、定価3銭
尋常小学校(旧制の小学校)、1886年(明治19)に設置、満6歳で入学、修業年限4年、1907年から6年に延長され、1941年(昭和16)国民学校が設置され消滅。


「尋常小学校書き方手本第五六学年用甲下甲種」
大正5年発行、定価3銭。
子どもの頃から親孝行を教えられていた。当時はそれが当たり前。親への虐待、果ては殺しなどとても考えられない時代。現代は……。


「少年日本歴史読本 第一篇 天の浮橋」
明治44年発行、定価18銭。

内容は『古事記』より採ってある。





著者は、歴史の書物は国家的観念の要請に偉大な力があるが、今の学校の児童や学生は種々の学科の関係から歴史の時間が減らされ、授業も無味乾燥になっているので、多忙であるけれども黙っているのも忍びないから筆をとった、としている。いつの時代も世を憂う人がいるものだ。

当時の子どもたちは歴史(神話)をこのような読み物で理解していたのだ。現在は神話が軍国主義に利用されたということで、学校教育では神話は教えられてなく、子どもたちは漫画で日本神話を知り、漫画が神話教育の代用となっているそうだ。

第二次大戦後(1945年〜)、先人が残してくれていた価値観を全て古いものとして捨て去ったといわれ、神話もそうであったようである(当時1歳だった自分にはわからないが)。宮崎県は『古事記』『日本書紀』に語られている日向神話の場所であり、神話の舞台となった地域があちらこちらにある。軍国主義に利用された神話ではあるけれども、もともとは土地の人々が語り継いできたもので、事実の証明がないから認められないなどと気色ばらずに物語として楽しみ、また、そういう所は景勝の地が多いので、自然と地域の文化にふれる旅をして人生を楽しむのもいいのではないだろうかと思っている。

2008年9月 2日 (火)

観音さま参りとは

暑かった8月も終った。在籍する大学(通信教育部)の平成20年夏期スクーリングが始まっている。4年目になると受講科目も少なく、今夏の受講予定は1科目だったので8月中旬に受講してきた。次回は来年の予定だ。現在は家でテキスト科目を相手にシコシコとやっている。卒業の準備をしている友もいるなか、我が身は焦らず怠らず、ポレポレ(スワヒリ語でゆっくり)と、卒業はいつのことやら未知数だが勉学には勤しんでいる。でも、我が家の財務大臣がうしろから「卒業はいつ?」と突っつく。トコロテンならともかく、こればかりは能力の問題もあるので、我慢してもらうしかないのだ〜。8月中旬の奈良滞在中、奈良国立博物館では特別展「西国三十三所」が開催(8/1〜9/28)されていた。三十三所の内、奈良県に在る四所(寺)を、3年前に参拝していたこともありスクーリング終了後、特別展を見に行った。

リーフレット(左)と図録(右)

観覧料は、キャンパスメンバーズとして400円。大学生であることを感謝しながら展示品を見てきた。




奈良県には、第6番壺坂山「南法華寺(壺坂寺)」・第7番東光山「岡寺(龍蓋寺)」・第8番豊山「長谷寺」・第9番「興福寺南円堂」があり、番外として豊山「法起院」がある。平成17年の8月、9月に参拝し納経帳に御朱印を受けていた。
私の参拝は、人々の苦悩、厄難を救うといわれる観世音菩薩に、信仰があるからとか、学習が大変だから頼みにという訳ではない。昔はその寺に行くこと自体が修行だったそうであるから、少しは苦労を味わうために最寄の駅までは電車を利用したが、駅からは歩いての参拝だった。

第6番「南法華寺」の御朱印。

有名な『壺坂霊験記』の場所であることを知った。
駅からバスでなら10数分、歩いては1時間以上、山道がきつくて遠かった。


第6番「南法華寺」特別展の展示品は
壺坂観音縁起絵巻・両界曼荼羅・鳳凰文塼(重文)など。


第7番「岡寺」の御朱印

参道の坂道にある「坂乃茶屋」。汗ばった身体に、冷やしそうめんが美味しかった。






第7番「岡寺」特別展の展示品は
菩薩半跏像(重文)・龍蓋寺縁起・天人文塼(重文)・釈迦涅槃像(重文)・西国三十三所順札元祖十三人先達御影像版木・西国三十三所御詠歌版木など。


第8番「長谷寺」の御朱印

寺が駅よりかなり下の方にあるので、帰りの上りがきつかった。奈良帰りの電車で宮崎県に詳しいT画伯に出会い、話がはずんだ。



第8番「長谷寺」特別展の展示品は
銅板法華説相図(国宝)・長谷寺縁起絵巻・長谷寺験記・法華経一品経(国宝)・十一面観音立像(重文)・十一面観音像・春日南円堂曼荼羅・長谷寺本堂再建勧進状など。


第9番「興福寺南円堂」の御朱印

観光名所、興福寺境内の一角にあるので参拝には便利が良い場所であった。





第9番「興福寺南円堂」特別展の展示品は
伝行賀坐像(国宝)・燈籠火袋羽目(国宝)・春日鹿曼荼羅・密観宝珠嵌装舎利厨子など。

いづれの寺も観光地化している。現在は供養、祈願、健康、観光、自己研鑽など、参拝目的や動機はいろいろあるらしい。昔の参拝は、ある事を固く信じて、その一念で今のように整備されていない道を歩き、そして山を登り、参拝していたのである。その気力が修行であり、病気や悩みを克服していたのだろうか?我が身には考えさせられる事が多い。

2008年8月 5日 (火)

古代の墓

先月の下旬、宮崎県総合博物館主催「遺跡探訪〜諸県の古墳を歩く〜」に行ってきた。場所は野尻町〜小林市〜えびの市である。古墳といっても南九州独特の地下式横穴墓(地下式古墳とも言うそうである)が主な見学だった。珍しい墓である。

小林市にある「東二原地下式横穴群」
現在は二原遺跡公園になっている。昭和63年耕作中に1基が発見され、その後平成2年の圃場整備作業中に次々見つかり、合計16基確認されて現在は遺跡公園として整備保存されている。


「11号地下式横穴墓」保存の家

内部は、地下式横穴墓上部の土を取り去り内部が見えるようになっている。


「8号地下式横穴墓」保存の家

8号地下式横穴墓内部状況や副葬品についての説明。


「11号地下式横穴墓」
手前が竪坑、奥が遺体の置かれる玄室で、天井部はドーム状だったとか。玄室の入口は石で閉塞。玄室の広さ212cm×212cm。人骨は5体(写真はレプリカ)。
副葬品は鉄鏃15・刀子3・剣3・勅刀1・朱玉


発掘時の「11号地下式横穴墓」

『宮崎県史 資料編 考古2』より
4体が頭を玄室右側、1体は他の4体の足元。


「えびの市歴史民俗資料館」

旧石器時代〜近世までの資料が展示。なかでも、えびの市の島内地下式横穴墓群、小木原地下式横穴墓群から出土した副葬品が数多く展示。


展示品の一部
「骨鏃」(骨の矢じり)

人の骨で作ってあるのかとびっくりしたが、鹿の骨で作ってあるそうだ。


展示品の一部
「牡蠣製垂飾品」

牡蠣で作った飾りらしい、ノルウエーの画家ムンクの絵画「叫び」の顔に見えてしまう。
古代人の「叫び」かナ。




5世紀前半から7世紀にかけて出現したと考えられている地下式横穴墓は目標物がないため(造墓時にはあったらしいが)、いつも畑で耕作中とか、ブルドーザーなどの土木機械で圃場整備中に玄室が破壊(竪坑は埋め戻してある)されて発見されている。突然大きな穴が開いて調査が始まり、終ると埋めてしまうので、どのような場所にあり、どのような状態になっているのかは調査報告書や副葬品でしか知ることができない。実物が整備保存されている東二原遺跡(他には西都原古墳群がある)は興味のある人には貴重な場所であろう。

2008年7月16日 (水)

仕事の合間

7月、梅雨が明けた(7/6)かと思ったら夏本番のような天気が続いて、一雨欲しいくらいである。昨年の今頃は、台風4号が九州(大隈半島)に上陸し大変な状況だった。お陰で予定していたスクーリングに行けなかったのを思い出す。今年の7月は仕事(アルバイト)である。学習の方はレポート作成に頑張っている?ところだ。仕事は山間地であるが、近くには川が流れているので、夏の山間地は平野部にいるより気持が良い。建屋から出ると川の水は澄み、木々の濃い緑には心も癒され、暑さも苦にならない。合間には面白い発見や勉強になることも多い。
(一ツ瀬川流域にて)

〇上流(西米良村)

ここは故郷ではないのだが、文部省唱歌「ふるさと」の歌詞「……山はあおきふるさと 水はきよきふるさと」が思いだされる。


〇最上流(椎葉村大河内)

川の側にある岩が人の横顔に見える。
右側はくるくる巻いた髪、左側は目鼻立ちの整った顔に見えるのは僕だけかな?




(小丸川流域にて)
小丸川中流域の児湯郡木城町石河内地区に、武者小路実篤が理想郷として建設した「新しき村」がある。しかし、この「新しき村」の農地が水力発電用のダムで水没することになったため、一部が埼玉県毛呂山町に東の「新しき村」として移転し、残りが「日向新しき村」として存続している。

〇「日向新しき村」

大正7年(1918)、15人の同士と建設し、昭和14年(1939)埼玉県に移転した後も残っている村の入口。実篤自身は昭和元年(1926)「新しき村」を離れ、奈良に住み村外会員となっている。


〇実篤の著書

「友情」は実篤が宮崎にいたころ、大正8年(1919)の作品。


〇川原ダム(九州電力)

昭和13年(1948)、このダムの建設により「新しき村」の農地が水没。


〇実篤の作品に因む「友情」と名付けられたトンネル。

木城町から石河内地区に行く途中にあり、「日日新」と名付けられたトンネルもある。




武者小路実篤は大正7年(1918)「新しき村」の開村時、房子夫人と一緒に入村したが、大正11年(1922)に房子夫人と離婚している。房子夫人は離婚後も宮崎の「新しき村」に残り、天寿〔明治25年(1892)〜平成2年(1990)〕を全うされている。
武者小路実篤が「新しき村」を離れて奈良に移住したのは、『古代の幻』(世界思想社)によると、志賀直哉が在住していたことのほかに、農業を基盤とした村づくりながら、農業経験者が余りにも少ないために農業がうまくいかず、経済的な困窮を実篤自身の執筆活動で支えなければならなかったということ。昭和元年(1926)3月の「新しき村通信」に宮崎よりも奈良では「僕のいることをよろこんでくれる人が多い」。また、奈良では「宮崎と違って僕に一日でも長く居てほしがっている」と、宮崎では地元民から十分には理解されていない。云々とあるが、農業経験者がいなくて困窮していたのは理解できるけど、地元が歓迎していないというのはそうだったのだろうか疑問である。

2008年6月20日 (金)

梅雨晴れの散策

今日(6/18)は梅雨晴れで青空も見えました。うっとおしい日が続いていたので外に出てみました。そして近くを散策しました。ふだん何気なく通る道も道端を気を付けて見ると、さまざまな生き物に出会います。
西都原考古博物館展示室のある場所に、次のような文章が書いてあります。「人を想うことは素晴らしい。歩く速度は人を想うことができる。馬を駆ける速度は、風に抱かれ自然と一体となれる。しかし、車の速度では人を想いやることができない。」この文章の「人」を「生き物」と置き換えて読んでも違和感はないようです。

「いしがけ(いしがき)ちょう」に出会いました。
普通は指なんかに止まるはずはないのですが、羽化したばかりなのでしょうか、逃げませんでした。


羽を開いた「いしがけちょう」。模様が石垣のようです。
以前、珍しい「ちょう」と思って、携帯電話で撮っていたものです。
ところで、「ちょう(蝶)」は「一羽、一匹」のほかに「一頭」とも数えるそうで、これには驚きました。
「頭(とう)」と言うと、大型動物のイメージで、ヒラヒラと舞う「ちょう」がそのように数えられるとは、理由はあるのでしょうが以外に思いました。


「べにしじみ蝶」にも出会いました。


「バッタ」の子供?にも出会いました。
顔面を見ると仮面ライダーが目に浮かびます。


「アマガエル(雨蛙)」の子供にも出会いました。
蛙と言うと、平安時代の書道家である小野道風が雨の日、柳に飛びつく蛙を見ていて努力奮起し、大成したという逸話を想い出します。


「コガネグモ(黄金蜘蛛)」にも出会いました。
鹿児島県の加治木町では、コガネグモを戦わせる「くも合戦」という伝統行事があり、全国大会もあるそうです。一本の横棒に2匹のコガネグモを対峙させて戦わせます。子供の頃、遊びでよくやりました。


「カマキリ(蟷螂)」の子供にも出会いました。
形は小さくても、掴むと鎌状の前肢で向かって来ます。手強いです。







「蟷螂の斧」という言葉があります。『広辞苑』に「自分の微弱な力量をかえりみずに強敵に反抗すること。はかない抵抗のたとえ。」だそうですが、今の世は、はかない抵抗でも多くが集まれば(例えば選挙)、変えることも出来るので悪い意味だけではないと思います。

今日の散策は道草を食って、万歩計は歩数12764歩・距離9.6km・歩行時間115分・消費カロリー640kカロリー・脂肪燃焼率19.9gでした。メタボの予防に少しは役に立ったようです。
 


2008年6月 8日 (日)

史跡のある地域

現在、みやざき歴史文化館では「宮崎市の文化財�」として宮崎市の指定文化財の一部が展示されているので行ってきた。6/22までの展示である。
その中の一部分であるが興味あったものを紹介すると、

(左上)水晶製勾玉他・(中)金製垂飾付耳飾・(右上)硬玉製勾玉他・(左下)ガラス製丸玉・(右下)ガラス製丸玉と     硬玉製勾玉
 などの装身具類。 





  眉庇付冑





  鉄剣








上の遺物は下北方地下式横穴5号からの出土品の一部である。
「地下式横穴は、古墳時代の5世紀から7世紀にかけて営まれた南九州特有の墓制で、地表から深さ2mほどの竪坑を堀り、その底部から直角に玄室と羨道を設けたものです。下北方地下式横穴5号は、昭和50年7月2日、県指定史跡宮崎市下北方古墳9号墳の周辺部を開墾中に発見され、玄室は妻入形で、奥行535cm、幅266cm、天井までの高さ170cmの規模を有する最大級の地下式横穴です。…」 … 展示説明文より

出土品は装身具・武具・武器類であるが、被葬者は男性?女性?どちらだろうか??

他の地域にある地下式横穴墓で、残っている人骨と副葬品の関係を調べると、女性の被葬者に武器が伴う例は結構あるらしい。武装した女性を想像すると、また興味が膨らむ。

どのような場所から出土したのだろうと、宮崎市市街地の北部の下北方町塚原地区の出土現場に行ってみた。

下北方地下式横穴5号墓はこの周辺であると思われるのだが、住宅地の真ん中であり埋め戻してあるのでわからなかった。数基の円墳も個人宅地の中(庭)にあり簡単に近くへ行けない。標識も壊れかかっていて案内板も無くわかりにくかった。


この円墳も住宅と道に押されやっと残っている。標識がわずかに古墳であることを知らせている。


上の円墳から100mほどの場所にある「景清廟」である。









景清とは平安末期の武将で、『平家物語』巻11「弓ながし」にその活躍ぶりが描かれている。「遠からん者は音にも聞け、近くば目にも見たまえ。われこそ、京童の呼ぶ上総悪七兵衛景清ぞ」(河出書房新社国民の文学)云々とある。伝説は、平家が滅びた後、源頼朝は臣下に望んだが、ニ君には仕えず、源氏の繁栄も見たくないと両目をえぐりとった。頼朝は殺さず日向国に追放したのだそうだ。そしてこの地で没して祀られたのが「景清廟」のようである。史実としては鎌倉で餓死したらしいと聞いた。

ここ宮崎市下北方町塚原地区は平和台下の台地にあり、入り組んだ小道の中に景清廟、帝釈寺をはじめ前方後円墳や円墳など史跡の多くある地域で、散策するにはいい場所のようである。

2008年4月10日 (木)

春の一週間


田植の終った田んぼ。

早期水稲である。

持ち主は、台風の来る前に収穫できるようにと、豊作を祈っておられるだろう。


土手には土筆(つくし)が出ていた。

つくし誰の子スギナの子、という歌があったような?


上を見ると電柱にカラスの巣がある。

カラスにはいい場所でも、停電の原因になるんだぞと、電力会社は困っている。


生目の杜運動公園内アイビースタジアム(2002年12月完成)。

プロ野球の福岡ソフトバンクホークスのキャンプ地であり、春・秋のキャンプ時は凄い人出である。


生目の杜運動公園内の桜。

花は桜木、人は武士という。

桜は幼木でも散り際がよいが、不祥事の多い昨今、人(偉いと思われている)の散り際(潔さ)はどうだろう?


生目の杜運動公園そばの古墳。

田んぼの中にある古墳(円墳)、墳頂に標柱が見える。

遠くの山並が、自遊人には横臥している観音さまのように見える。


西都原古墳群、満開の菜の花。

前方に見える森の中に、宮内庁が陵墓参考地として治定している、女狭穂塚・男狭穂塚の両古墳がある。


西都原考古博物館横の高取山。

ミツバツツジが咲き始めた。

満開になると山の斜面が赤やピンクに染まり見事である。

2008年4月 3日 (木)

歳月人を待たず

  

今年も菜の花が満開

黄金一色 

風水では黄色は幸運の色らしい

(西都原古墳群内)




また春になり、新年度がやって来た。

サラリーマン生活は卒業しているので意識する必要は無いのだが、一応は学生の身分なので、その関係で言うと、今年度は1年上がって4年生になる。

学生として昨年度の総括をすると、科目において不合格がいろいろあったなかで、特に文学論には悩まされた。

(歴史+平安+江戸+現代)文学論あり、努力(?)したのだが、リポートの再提出3回・単位修得試験の不合格4回、けれども、これで終ったのではなく今年度も格闘は続くのである。

学習するまでは、文学とは縁のない世界にいたので少々きついけれど、歴史を学習するには文学も欠かせない科目なので、頑張るしかない。

と、言う訳で、昨年度は頭をひねってるうちに年月は過ぎていった。で、「歳月人を待たず」と感じたのである。

でも、はるか昔には年月を待っていた時期もあったのだ。もう幾つ寝るとお正月とか、早く大人になりたいなと思っていた頃が、懐かしく想える。

現在は意識より年月が先にいってしまい、追っかけて行く日々であり、歳(年)を取るほどこの傾向を強く感じる。

卒業までに残るは36単位。1年1年と学習の難しさを感じているので、あと数年はかかるであろう。

暇なときは時間の経つのが遅く感じるし、何かに熱中しているときは時間の経つのが早く感じる。同じ時間の流れであるのに、充実感を感じるのは後者のように思われる。

と言うことで、今の生き方は充実しているのだ、と自分に言い聞かせている。


2008年3月18日 (火)

埴輪は語る

宮崎県では、形象埴輪(人や物を象った埴輪の総称)の出土が、2002(平成14)年まで待たなければならなかったらしい。

鉱脈社発行の北郷泰道氏の著書『古代日向・神話と歴史の間』によると、「 (前略) ここ5年程前までは、全体像を知りうる人物埴輪や動物埴輪は一つとして存在しなかった、と断言する。 (中略) 確かに、重要文化財に指定された西都原古墳群(西都市)出土の子持家形埴輪と舟形埴輪の存在感は強烈である。だからといって、多くの形象埴輪(人や物を象った埴輪の総称)が出土しているわけではないのだ。だから、1997(平成9)年に始まる新田原ー祇園原古墳群(新富町)の一つ、百足塚の発掘調査で、人物埴輪を含む多種多様の形象埴輪が出土したことは、考古学を研究してきた私たちにとっても大きな驚きだった。宮崎県出土の全体像を現した人物埴輪に、初めてお目にかかったのだから。その全容が明らかになったのは、2002年のことであった。地域の歴史は、個性を持っている。個性的な踊る埴輪が個性的な地域から出土したように、宮崎県出土の人物埴輪も、また個性に満ちていた。 (後略) 」




形象埴輪が多数出土した、と著書にある新富町の「百足塚(むかでづか)古墳」。






   前方後円墳 墳長 80m 築造 6世紀。
埋葬施設は横穴式石室が確認されているが、発掘はされていない。

百足塚という名前の由来は、わからないそうである。昔は百足が多くいたのかな〜。






百足塚古墳」前の案内板に示された多種多様の出土した形象埴輪の一部。





多数出土した円筒、動物、人物、盾形埴輪の中で、円筒埴輪は1000体を越えるとみられている。




百足塚古墳から出土した埴輪を特別に見せてもらった(新富町所蔵)






新富町の収蔵庫にある人物埴輪「ひざまずく男性」 高さ63cm。





説明してくれた学芸員は「祝詞をあげているか、語り部として首長に何かを語っているのではないか」と話す。

「ハハッ 仰せのとおりでございます」と、言っているようにも見える。





新富町の収蔵庫にある人物埴輪「性器をみせる女性」 高さ90cm。






「神がかりした女性は踊りながら着衣が乱れ、性器を露出させています」   … 2006.11発行の展示図録の説明。

「ホラッ ちょっとだけよ〜」と、性にたいして、おおらかさを感じるな〜。
天の岩屋に隠れた天照大御神を引き出す作戦で踊ったアメノウズメノミコトの再来か?

多数の埴輪が出土した百足塚古墳について、前述の著書の中に、「6世紀前半の横穴式石室を埋葬施設とすると見られるが、継体天皇の真の陵墓であることが有力視されている今城塚(大阪府高槻市)で確認された埴輪祭式と強い共通性が認められるのである。」と記載。 とても興味深い。

2008年3月11日 (火)

引揚者


昨年6月18日の新聞で左の記事を見付けた。
引揚者にも銀杯が贈られる。
 







私も引揚者だったなと思い、詳細を関係機関である「平和祈念事業特別基金」のホームページで調べると、「外地に終戦日(昭和20年8月15日)まで引き続き1年以上生活の本拠を有した者」となっていた。昭和19年1月に生まれ、昭和21年に旧満州国より引揚げているので、該当することがわかった。


引揚者在外事実調査票 (昭和31年)
昭和21年引揚時
 父30歳 母28歳(妊娠7ヶ月) 私2歳 







両親も亡くなっていて、引揚者ということは戸籍でのみしか証明するものは無かった。そこで「外地居住等に関する申立書」を提出するために厚生労働省の社会援護局中国孤児等対策室に連絡したら、「引揚者在外事実調査票」なるものが残っていて送ってもらった。それによると、コロ島(葫蘆島)から引揚船で、昭和21年9月20日博多港に着いたことがわかった。必要事項を記入して「平和祈念事業特別基金」に提出して結果を待った。


そして申請が認められ、今年の2月に左の銀杯が送ってきた。
これを見るたびに、早く亡くなった両親が想い出される。






当時のことは幼児の身で何もわからないが、両親の庇護のもとで無事に日本へ帰れたのである。貧しい生活だったが本国で家族と暮せたことは最大の幸せだったと思っている。しかし、帰ることが叶わず中国の大地で亡くなったり、止むを得ず置き去りにされて残留孤児となった人たちのことを考えると胸が痛む。幸いに数十年後、憧れの日本に帰れた孤児の人たちもいたが、厳しい生活環境の元では国を相手に損害賠償を求める裁判を起こしたりしていた。しかし、国もやっと残留孤児を理解してくれ、昨年11月には残留孤児支援法も改正されて給付額がアップすることで、訴訟の和解や取り下げがなされていることを聞いている。
日本国民として、最後には「日本人に生まれて良かった」と言える日本国でありたいものである。