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2010年9月

2010年9月24日 (金)

出自は大事

 前回の続きで、北郷泰道氏の著書『海にひらく古代日向』の一部であるが、南九州の宮崎は海を通して中国大陸や朝鮮と結びついていた。
 それを象徴すると思われる物が、宮崎県串間市から出土したとされる日本列島唯一のナゾの宝器といわれている「玉璧」である。
003 (写真)

日本、韓国、台湾の国際交流展「玉と王権」で展示された、串間市で出土したとされる玉璧(直径33.3cm厚さ0.6cm重さ1600g)。
西都原考古博物館にて(2009年10月)。

現在、西都原考古博物館にはレプリカがある。

その物は完璧の語源となり、古代中国の皇帝が周辺の諸国王に王権の象徴として授けたものらしい。
 古代中国において、最上位に位置付けられたのは玉・金・銀・銅であり、玉璧の価値を物語るエピソードとして、司馬遷『史記』の故事では15の城と交換するに値するほどの宝器(玉璧)があったことが記されているらしい。
 実物は東京駒場に所在する公益法人、前田育徳会(石川県旧加賀藩前田家)の所蔵となっていて、桐箱に納められ、その箱の表の中央に大きく「古玉璧」と書かれ、脇に所蔵者であった北海道名付け親とされる松浦武四郎である「多気志盧蔵」と書かれている。
 内側(写真 左側)に1818(文政元)年、日向国那珂郡今町村の農業を営む佐吉が王之山を耕作中に石棺を掘り当て、鉄器や玉類30点余りと一緒に出土した、と書かれている。
 2009年度西都原考古博物館で開催された国際交流展「王と玉権」の図録によると、「この玉璧は南越王(中国南部からベトナム北部に自立した国)の棺室から出土したものに類似している。前2世紀に漢王朝の工房でつくられ蛮夷をふくめた王侯クラスに賜与された宝器ではないだろうか。漢王朝は北の匈奴の侵入に苦しめられていたので東や南の蛮夷を国王として優遇し、国境を保全する必要があった。南越王墓から出土した玉璧も漢王朝の蛮夷懐柔策によって贈与され、伝串間の玉璧も同じときに漢王朝から朝鮮王にたいして贈られたが匈奴との戦いが一段落した漢王朝は、その矛先を東や南に向け、前111年には南越国を前108年には朝鮮国を滅ぼしている。この朝鮮国の滅亡にあたり保管されていた玉璧がなんらかの理由で流出し、串間にもたらされたのではないか」と載っている。
 現在の串間市に今町村があったことは問題ないようであるが、王之山の地名が市内には残されていない。著者(北郷氏)は玉璧と古代日向を結ぶものとして、1古代中国における玉璧 2伝串間出土の玉璧 3認識の経緯 4近代化と現代化の中で 5好事家としての武四郎 として、それぞれ考察しているが、①「発見」の時の記録、残されるとすれば高鍋藩であるが、藩に報告されたという史料はあるのか。②入手までの間の「保管」はどのようになっていたのか。③武四郎の「入手」の経緯は、その記録は残されていないのか。④60代の頃個人展覧会を催しているが、武四郎のもとでどのように「活用」されていたのか。⑤小野湖山が箱書を書いたのは、どのような経緯であったのか。⑥前田育徳会の「受入」の経緯とその記録は如何なるものであったのか。として、こうした諸段階が想定できるが、いずれも確たる証拠はないと言うしかないし、玉璧出土を肯定する決定的な記録もなければ、逆に否定する決定的な資料もない、というのが結論である、と締めくくっている。
 そのような訳で、すごいものではあるけれど、出どころがはっきりしていないため「国宝」には指定されていないのである。