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2010年8月

2010年8月25日 (水)

古代日向

北郷泰道氏の新刊 『海にひらく古代日向』鉱脈社2010年 を読んだ。地方で活躍する考古学者の視点で南九州の歴史を概観し、古代日向の位置が考察されていて面白かった。その内容の一部は、

003 古代(畿内王権時)、日本と中国大陸や朝鮮半島を結ぶ航路は、瀬戸内海から北部九州を通る北回りがあたりまえのように考えられているがそうではなく、瀬戸内海から日向灘を南下して南九州を経由する南回り航路があったと考えられる。
というのは、北回り航路の北部九州は新羅と交渉があり、権益を筑紫君が掌握していた。6世紀前半に継体天皇が筑紫君磐井を討った「磐井の乱」の平定後、北回り航路の自由が保障されたのである。
南回り航路は、4世紀後半から5世紀代にかけて日向から畿内王権へ妃を迎えているが、それは畿内王権が南回り航路確保のために日向の豪族との関係強化ではなかったのかというのである。

001














『日本書紀』の応神天皇の条に、日向出身で、仁徳天皇妃とされる髪長媛の父である諸県君が播磨(兵庫県南西部)の海で、応神天皇と遭遇する場面があり、そこを鹿子(かこ)の水門(兵庫県加古川周辺)といい、水夫のことを鹿子ということの始まりであるとされている。
ということは、諸県君が瀬戸内海を掌握していたことの証明になるのではないだろうか。
西都原古墳群出土で重要文化財の舟形埴輪は充分にそのことを思わせる。
以上のことを考えると、畿内王権との関係により、九州最大の前方後円墳が西都原古墳群にあることも納得できる。
しかし古代日向は、畿内王権が継体天皇時代に筑紫君磐井の制圧により北回り航路の権益を得たことで、南航路の役割は終わり、そのことは古代日向の凋落を意味していたという内容である。

  (写真 上 『海にひらく古代日向』 P48  下 西都原考古博物館展示の舟形埴輪)