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2008年6月

2008年6月20日 (金)

梅雨晴れの散策

今日(6/18)は梅雨晴れで青空も見えました。うっとおしい日が続いていたので外に出てみました。そして近くを散策しました。ふだん何気なく通る道も道端を気を付けて見ると、さまざまな生き物に出会います。
西都原考古博物館展示室のある場所に、次のような文章が書いてあります。「人を想うことは素晴らしい。歩く速度は人を想うことができる。馬を駆ける速度は、風に抱かれ自然と一体となれる。しかし、車の速度では人を想いやることができない。」この文章の「人」を「生き物」と置き換えて読んでも違和感はないようです。

「いしがけ(いしがき)ちょう」に出会いました。
普通は指なんかに止まるはずはないのですが、羽化したばかりなのでしょうか、逃げませんでした。


羽を開いた「いしがけちょう」。模様が石垣のようです。
以前、珍しい「ちょう」と思って、携帯電話で撮っていたものです。
ところで、「ちょう(蝶)」は「一羽、一匹」のほかに「一頭」とも数えるそうで、これには驚きました。
「頭(とう)」と言うと、大型動物のイメージで、ヒラヒラと舞う「ちょう」がそのように数えられるとは、理由はあるのでしょうが以外に思いました。


「べにしじみ蝶」にも出会いました。


「バッタ」の子供?にも出会いました。
顔面を見ると仮面ライダーが目に浮かびます。


「アマガエル(雨蛙)」の子供にも出会いました。
蛙と言うと、平安時代の書道家である小野道風が雨の日、柳に飛びつく蛙を見ていて努力奮起し、大成したという逸話を想い出します。


「コガネグモ(黄金蜘蛛)」にも出会いました。
鹿児島県の加治木町では、コガネグモを戦わせる「くも合戦」という伝統行事があり、全国大会もあるそうです。一本の横棒に2匹のコガネグモを対峙させて戦わせます。子供の頃、遊びでよくやりました。


「カマキリ(蟷螂)」の子供にも出会いました。
形は小さくても、掴むと鎌状の前肢で向かって来ます。手強いです。







「蟷螂の斧」という言葉があります。『広辞苑』に「自分の微弱な力量をかえりみずに強敵に反抗すること。はかない抵抗のたとえ。」だそうですが、今の世は、はかない抵抗でも多くが集まれば(例えば選挙)、変えることも出来るので悪い意味だけではないと思います。

今日の散策は道草を食って、万歩計は歩数12764歩・距離9.6km・歩行時間115分・消費カロリー640kカロリー・脂肪燃焼率19.9gでした。メタボの予防に少しは役に立ったようです。
 


2008年6月 8日 (日)

史跡のある地域

現在、みやざき歴史文化館では「宮崎市の文化財�」として宮崎市の指定文化財の一部が展示されているので行ってきた。6/22までの展示である。
その中の一部分であるが興味あったものを紹介すると、

(左上)水晶製勾玉他・(中)金製垂飾付耳飾・(右上)硬玉製勾玉他・(左下)ガラス製丸玉・(右下)ガラス製丸玉と     硬玉製勾玉
 などの装身具類。 





  眉庇付冑





  鉄剣








上の遺物は下北方地下式横穴5号からの出土品の一部である。
「地下式横穴は、古墳時代の5世紀から7世紀にかけて営まれた南九州特有の墓制で、地表から深さ2mほどの竪坑を堀り、その底部から直角に玄室と羨道を設けたものです。下北方地下式横穴5号は、昭和50年7月2日、県指定史跡宮崎市下北方古墳9号墳の周辺部を開墾中に発見され、玄室は妻入形で、奥行535cm、幅266cm、天井までの高さ170cmの規模を有する最大級の地下式横穴です。…」 … 展示説明文より

出土品は装身具・武具・武器類であるが、被葬者は男性?女性?どちらだろうか??

他の地域にある地下式横穴墓で、残っている人骨と副葬品の関係を調べると、女性の被葬者に武器が伴う例は結構あるらしい。武装した女性を想像すると、また興味が膨らむ。

どのような場所から出土したのだろうと、宮崎市市街地の北部の下北方町塚原地区の出土現場に行ってみた。

下北方地下式横穴5号墓はこの周辺であると思われるのだが、住宅地の真ん中であり埋め戻してあるのでわからなかった。数基の円墳も個人宅地の中(庭)にあり簡単に近くへ行けない。標識も壊れかかっていて案内板も無くわかりにくかった。


この円墳も住宅と道に押されやっと残っている。標識がわずかに古墳であることを知らせている。


上の円墳から100mほどの場所にある「景清廟」である。









景清とは平安末期の武将で、『平家物語』巻11「弓ながし」にその活躍ぶりが描かれている。「遠からん者は音にも聞け、近くば目にも見たまえ。われこそ、京童の呼ぶ上総悪七兵衛景清ぞ」(河出書房新社国民の文学)云々とある。伝説は、平家が滅びた後、源頼朝は臣下に望んだが、ニ君には仕えず、源氏の繁栄も見たくないと両目をえぐりとった。頼朝は殺さず日向国に追放したのだそうだ。そしてこの地で没して祀られたのが「景清廟」のようである。史実としては鎌倉で餓死したらしいと聞いた。

ここ宮崎市下北方町塚原地区は平和台下の台地にあり、入り組んだ小道の中に景清廟、帝釈寺をはじめ前方後円墳や円墳など史跡の多くある地域で、散策するにはいい場所のようである。