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2007年1月

2007年1月31日 (水)

古墳

冬晴れの西都原考古博物館を撮影、手前は円墳。
この博物館は前方後円墳をイメージして作られ、鉄筋コンクリート4階建。地下1階(展示室・収蔵室)1階(ホール同時通訳ブース併設・ミュージアムショップ)2階(図書室・情報利用コーナー・セミナー室)3階(展望ラウンジ)。
3階展望ラウンジより265号墳(船塚)撮影
前方後円墳(墳長59.2m)前方部と後円部の高さがほぼ等しい(5.5m)。
1917(大正6)年発掘調査(十字形文鏡・管玉・直刀・刀子・鉾・鉄ゾク)が出土。
西都原では最後に造られた前方後円墳といわれている(6世紀後半)。この古墳のように前方部が台形になっていない丸みのある形を見つめていると、なぜか心が癒される。

2007年1月18日 (木)

神話


西都原考古博物館に隼人族(古代九州南部に住んでいた人々)の使用した盾(レプリカ)が展示してある。(写真)

1964(昭和39)年、奈良の平城宮跡で井戸の枠板として用いられていたものが発見され、それのレプリカである。

隼人族の盾は逆S字模様が特長であり、それは釣り針を表しているそうである。そしてそれは日向神話に関係しているのである。

それは何故だろう?

記紀によると、二二ギノミコト(高天原から降臨されたとされる日向1代の王)とコノハナサクヤヒメ(山ノ神オオヤマツミの娘)との間に3人の子供が生まれた。ホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコト、ホオリノミコト(山幸彦と言われ後の日向2代の王))である。

3人の子のうち海幸彦と山幸彦との兄弟が対立した。

それはある日、お互いの仕事の道具を交換したが、山幸彦が海幸彦の釣り針をなくしたことによる。

結果として山幸彦が勝ち海幸彦は「もう二度とあなたにさからいません、これからはあなたに従い、昼も夜もあなたをお守りしましょう」と、山幸彦に仕えることになったというのである。

記紀は、この海幸彦の子孫が隼人族であるとしている。

この間に、山幸彦はトヨタマヒメ(海の神ワタツミノカミの娘)と結婚してウガヤフキアゲズノミコト(日向3代の王)が生まれている。

このウガヤフキアエズノミコトは事情により母の妹(タマヨリヒメ)に育てられて成長し、やがて叔母であるタマヨリヒメと結婚している。

そして、4人の子供が生まれ、その1人がカムヤマトイワレヒコノミコト(後の神武天皇)である。

ということは、山幸彦の孫であるカムヤマトイワレヒコノミコトが東征して、やがて橿原宮にて即位したのである。

隼人族は幾度か大和朝廷に反抗しているが、721年に平定されている。そして、はるか平城宮の警護の任務についていた。そのとき使用していた盾が見つかったのである。

それはまさに海幸彦が山幸彦に「あなたをお守りします」といったことそのままである。

記紀は、山幸彦・海幸彦の話で隼人族の服属を明示しているのだが、それにしても、遺物(盾)と神話が繋がるのは楽しいものである。



2007年1月 7日 (日)

誕生日での想い


1944年(昭和19年)1月7日旧満州国鞍山市(現在の中国東北部)で生まれた。
終戦により日本に引揚げたのが、1946年(昭和21年)8月のことである。
リュックサック1個だけでの引揚げの苦労は、筆舌に尽くし難いほどだったそうである。
我が子を、やむなく中国人への養子や捨て子にする人の多い中で、そうされずに無事に日本へ帰れたのは、両親の深い愛情によるものだったと思っている。
後に聞いた話では、「死ぬときは家族一緒」という思いの帰国だったそうである。
当時の父は30歳、母は28歳で7ヶ月の身重でもあり、帰国後に無事女児を出産している。
現在の子供の虐待や子殺しが多い状況を考えると、昔の人は愛情深かったと思わずにはいられない。
帰国後生まれた妹も昨年還暦を迎えたが、母は還暦を迎えることもなく56歳で亡くなり、父も65歳で亡くなっている。
「孝行のしたい時分に親はなし」というが、まったくそのとおりである。
今は「孝行したくないのに親がいる」というそうであるが、悲しい時勢である。
しかし、長寿命になり老老介護が問題になっていることを考えると、わかるような気もする。
子供を「大地の子」(中国への残留孤児)にもさせず、老老介護の心配もさせなかった両親への感謝は尽きない。
 (写真は無事に持って帰れた誕生6ヶ月の自遊人)