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2010年11月22日 (月)

殉死

地域の歴史を学びたく古文書講座を受講している。
その講座のテキストで、旧佐土原藩(当初3万石後2万7000石)の歴代藩主を記録した『當家御代記』の中に殉死についての記録があった。殉死とは広辞苑によると「主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること」とある。
自遊人が知っている殉死についての知識は、古くは「魏志倭人伝」に倭の女王卑弥呼が死んだとき、徇(殉)葬者奴婢百餘(余)人の記述。646年薄葬令に人馬の殉死殉葬の禁止があること。『日本書紀』の垂仁天皇紀に皇族が亡くなるとその人に仕えていた人を生き埋めにしていたが、野見宿禰がそのような人たちを哀れに思い、垂仁天皇の后が亡くなったときに土の人形を人のかわりに立てるように案を出して、採用されたという埴輪の起源に関する話。これについては、現代の考古学では形象埴輪より円筒埴輪が先に作られているので、史実としては考えられないそうである。
新しいところでは、明治天皇の大葬当日、自邸で夫人とともに殉死した乃木大将。そして森鴎外の小説で殉死を主題にした『阿部一族』が思い出される。
殉死は必ずしも忠君のためというのは疑問もあるが、その時代の慣習には逆らえないこともあったかもしれない。その思想は第二次世界大戦終末期、国(主君)のために殉じた神風特攻隊として突撃していった人たちにも似てるように思えてならない。
ところで、旧佐土原藩での殉死記録であるが、主君(2代藩主忠興公)が亡くなって自刃したのは17年後のことである。それでも殉死扱いされているのには驚かされた。
006 記録を訳すると、
「寛永14年(1637)6月11日忠興公が江戸で亡くなられ新智恩寺で火葬。奉号は青蓮院殿前典厩宗誉原隆居士。導師は貴屋和尚。遺骨は佐土原に持ち帰り高月院にて葬禮が営まれた。殉死の士は3人いわゆる新原勘兵衛、小川廉之助、小和田和泉で殉死を願い出たけれども許されなかった。そのため空しく年月を送り、青蓮院殿17回忌に当たって承応2年(1653)6月11日夜私宅の後にて自穴を堀テ自殺ス」
とある。
写真は自宅からここに移されたのか、高月院(佐土原藩島津家御廟所)にある2代藩主忠興公の墓前に並んでいる殉死した3人の墓である。長年にわたる一途の思いが為し遂げられたということだろうか。そして、あの世において、殉死の扱いをされて名誉なことだと3人で語り合ったのだろうか。
この廟所には初代藩主以久公に殉じた藩士4人の墓も隣にある。
現代の我々には、何故にここまで忠君を尽くすのか理解しにくいが、古文書がこのような歴史の事実があったことを教えてくれたのである。

2010年10月24日 (日)

諸行無常

 『平家物語』は平家一族の物語であり、滅亡については壇ノ浦の戦いが象徴的である。
 その歴史の一部を、「平知盛」を通して関門海峡で体感してきた。
 『平家物語』の巻頭にある有名な序章、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏へに風の前の塵に同じ。」
 訳文、「祇園精舎の鐘の響きは、万物流転のつねならぬ世の様をつたえ、白じろと散る娑羅双樹の花の姿は、栄える者のかならず滅びゆく道理をつげる。権におごる者の運命は、春の夜の夢のにはかなく、武に強い人の身の上もまた、ついには消えうせること。ひとえに風に吹き飛ぶ塵のようだ。」(『平家物語』国民の文学・中山義秀 訳)。
081_4 写真左 (赤間神宮)
壇ノ浦の戦いに敗れ、わずか八歳で入水した安徳天皇が祀られている。





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写真右 (壇ノ浦古戦場の平知盛像)
手前の像がそうである。入水時の錨を背負った姿である。しかし、『平家物語』では、鎧の上に錨を背負って入水したのは、平教盛、平経盛、平資盛、平有盛そして平行盛とあり、平知盛については、乳母子の伊賀平内左衛門家長とお互いに鎧二領を着て、手に手をとって一緒に海に入ったとある。
向うの像は源義経の像で、八艘とびの姿である。



084_3 写真左 (七盛塚の説明碑)












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写真右 (赤間神宮の境内にある平家七盛塚)
壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門十四人の合祀墓。前列に七人の武将たちを祀っていることから七盛塚と呼ばれている。前列左から二番目が平知盛の墓。




 平知盛は、平家の運命も最後となった壇ノ浦の戦いで、舟の屋形に立って、「並びなき名将勇士といへども、運命が尽きては力およばず。されど、惜しむべきは名である。東国の者どもに憶病者の名をとるな。命を惜しまずに力を尽くして戦い末代まで名をとどめよや者ども」(中山義秀 訳)と、平家の武将たちを叱咤し奮起させている。その一方で、奮戦している平教経に対しては「あまり罪を作りたもうな」と、平家の運命を予見し、そして運命が決まった今では意味のない殺生をしないように戒めている。
 この平知盛も「諸行」の「無常」と「盛者必衰」の「ことわり」を自覚している平家一門の一人であったのである。(『軍記物語の世界』「平家物語の構想」永積安明)

2010年9月24日 (金)

出自は大事

 前回の続きで、北郷泰道氏の著書『海にひらく古代日向』の一部であるが、南九州の宮崎は海を通して中国大陸や朝鮮と結びついていた。
 それを象徴すると思われる物が、宮崎県串間市から出土したとされる日本列島唯一のナゾの宝器といわれている「玉璧」である。
003 (写真)

日本、韓国、台湾の国際交流展「玉と王権」で展示された、串間市で出土したとされる玉璧(直径33.3cm厚さ0.6cm重さ1600g)。
西都原考古博物館にて(2009年10月)。

現在、西都原考古博物館にはレプリカがある。

その物は完璧の語源となり、古代中国の皇帝が周辺の諸国王に王権の象徴として授けたものらしい。
 古代中国において、最上位に位置付けられたのは玉・金・銀・銅であり、玉璧の価値を物語るエピソードとして、司馬遷『史記』の故事では15の城と交換するに値するほどの宝器(玉璧)があったことが記されているらしい。
 実物は東京駒場に所在する公益法人、前田育徳会(石川県旧加賀藩前田家)の所蔵となっていて、桐箱に納められ、その箱の表の中央に大きく「古玉璧」と書かれ、脇に所蔵者であった北海道名付け親とされる松浦武四郎である「多気志盧蔵」と書かれている。
 内側(写真 左側)に1818(文政元)年、日向国那珂郡今町村の農業を営む佐吉が王之山を耕作中に石棺を掘り当て、鉄器や玉類30点余りと一緒に出土した、と書かれている。
 2009年度西都原考古博物館で開催された国際交流展「王と玉権」の図録によると、「この玉璧は南越王(中国南部からベトナム北部に自立した国)の棺室から出土したものに類似している。前2世紀に漢王朝の工房でつくられ蛮夷をふくめた王侯クラスに賜与された宝器ではないだろうか。漢王朝は北の匈奴の侵入に苦しめられていたので東や南の蛮夷を国王として優遇し、国境を保全する必要があった。南越王墓から出土した玉璧も漢王朝の蛮夷懐柔策によって贈与され、伝串間の玉璧も同じときに漢王朝から朝鮮王にたいして贈られたが匈奴との戦いが一段落した漢王朝は、その矛先を東や南に向け、前111年には南越国を前108年には朝鮮国を滅ぼしている。この朝鮮国の滅亡にあたり保管されていた玉璧がなんらかの理由で流出し、串間にもたらされたのではないか」と載っている。
 現在の串間市に今町村があったことは問題ないようであるが、王之山の地名が市内には残されていない。著者(北郷氏)は玉璧と古代日向を結ぶものとして、1古代中国における玉璧 2伝串間出土の玉璧 3認識の経緯 4近代化と現代化の中で 5好事家としての武四郎 として、それぞれ考察しているが、①「発見」の時の記録、残されるとすれば高鍋藩であるが、藩に報告されたという史料はあるのか。②入手までの間の「保管」はどのようになっていたのか。③武四郎の「入手」の経緯は、その記録は残されていないのか。④60代の頃個人展覧会を催しているが、武四郎のもとでどのように「活用」されていたのか。⑤小野湖山が箱書を書いたのは、どのような経緯であったのか。⑥前田育徳会の「受入」の経緯とその記録は如何なるものであったのか。として、こうした諸段階が想定できるが、いずれも確たる証拠はないと言うしかないし、玉璧出土を肯定する決定的な記録もなければ、逆に否定する決定的な資料もない、というのが結論である、と締めくくっている。
 そのような訳で、すごいものではあるけれど、出どころがはっきりしていないため「国宝」には指定されていないのである。

2010年8月25日 (水)

古代日向

北郷泰道氏の新刊 『海にひらく古代日向』鉱脈社2010年 を読んだ。地方で活躍する考古学者の視点で南九州の歴史を概観し、古代日向の位置が考察されていて面白かった。その内容の一部は、

003 古代(畿内王権時)、日本と中国大陸や朝鮮半島を結ぶ航路は、瀬戸内海から北部九州を通る北回りがあたりまえのように考えられているがそうではなく、瀬戸内海から日向灘を南下して南九州を経由する南回り航路があったと考えられる。
というのは、北回り航路の北部九州は新羅と交渉があり、権益を筑紫君が掌握していた。6世紀前半に継体天皇が筑紫君磐井を討った「磐井の乱」の平定後、北回り航路の自由が保障されたのである。
南回り航路は、4世紀後半から5世紀代にかけて日向から畿内王権へ妃を迎えているが、それは畿内王権が南回り航路確保のために日向の豪族との関係強化ではなかったのかというのである。

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『日本書紀』の応神天皇の条に、日向出身で、仁徳天皇妃とされる髪長媛の父である諸県君が播磨(兵庫県南西部)の海で、応神天皇と遭遇する場面があり、そこを鹿子(かこ)の水門(兵庫県加古川周辺)といい、水夫のことを鹿子ということの始まりであるとされている。
ということは、諸県君が瀬戸内海を掌握していたことの証明になるのではないだろうか。
西都原古墳群出土で重要文化財の舟形埴輪は充分にそのことを思わせる。
以上のことを考えると、畿内王権との関係により、九州最大の前方後円墳が西都原古墳群にあることも納得できる。
しかし古代日向は、畿内王権が継体天皇時代に筑紫君磐井の制圧により北回り航路の権益を得たことで、南航路の役割は終わり、そのことは古代日向の凋落を意味していたという内容である。

  (写真 上 『海にひらく古代日向』 P48  下 西都原考古博物館展示の舟形埴輪)

2010年7月27日 (火)

口蹄疫

口蹄疫では宮崎県全体が苦しんだ。非常事態宣言も7月27日0時で全面解除されそうだ。

004 道路もいたるところに消毒箇所がある。
(宮崎市内にて)











003施設も閉鎖。(宮崎市内にて)












002 例年なら生目の杜運動公園にあるこの球場(アイビースタジアム)で高校野球が行われ、声援が聞こえていたはずであるが、今年は使用されずにひっそりしている。









004_2 例年は秋に向けてコスモスが植えられていたのだが、今年は口蹄疫復興のシンボルとして、西都原古墳群に植えられた150万本のヒマワリ。









5月18日の非常事態宣言から71日ぶりに平常の生活が戻る。しかし、約29万頭の牛や豚が宮崎県からいなくなったのだ。悲しいことである。
今後は畜産農家の方々の生活は勿論、宮崎県全体の経済復興が大きな課題であろう。

2010年6月25日 (金)

考えることは同じ

サッカーW杯2010南アフリカ大会が開催されている。日本もデンマーク戦の結果によって決勝トーナメントに進めるか気になるところである。

004 6月23日の朝日新聞にサポーターの吹き鳴らす「ブブゼラ」によく似た祭祀道具が、秋田県立博物館に展示されているという記事があった。
名前は木貝(けや)と言い、55cmの木製で、少し高めの音で「ブオーン」と響き、今も県内の祭りに登場するとか。
「古今東西、人は興奮すると大きな音を出したくなるのでは」同館学芸主事とある。
写真 朝日新聞より転載



Photo 写真 ゼゼブラ

ヤフーの画像より転載









「考えることは同じ」ということで、楽器ではなく、国内であるが、弥生時代の土器に似たものがある。
004_2 現在、口蹄疫の関係で休館になっている西都原考古博物館で、特別展「大地に刻まれた交流史~弥生時代の竪穴住居」が催されていた。
展示品に都城市の住居跡から、写真のような土器が見つかっている。
詳細は分からないが、液体を入れるものであろうという説明であった。




003 都城市で見つかったと同じような土器が奈良県桜井市にある「桜井市立埋蔵文化財センター」にある。学芸員の話では、「水源と思われる場所よく見られるので水に関係する祭祀に使われたのでは」との説明であった。
桜井市は纒向遺跡のある場所である。纒向遺跡には日本各地の土器の搬入が見られるそうで、西は大分県あたりから東は南関東地域のものが確認されているそうである。
ひょっとすると、この土器も日向の地から搬入されたのではと思ったのであるが、形は同じでも質が違うようである。
前述の「ブブゼラ」じゃないけど、人は考えることが同じなら(この場合は水?)似たようなものを造るということなのかナ。

2010年5月25日 (火)

物の見方

自遊人の散歩コースである場所に一際高い2本の木(ワシントニアパーム?)が見える。
ある時、見る位置によってその風景(表情?)が変わることに気付いた。擬人化して見ると、その2本の木は恋人のような、そんな想像を掻き立てる。

007_2 再 会











                                  

                                                                        

008 キス












                                                                            

009 抱擁












                                                                            

012 つらい別れ












                                                                            

動かない立ち木でも、見る位置によってその風景は違う。故事に「群盲象を撫でる」という言葉があるように、我々凡人は一部だけを見てそれがあたかも全てであるように批評しがちである。人との付き合いにおいても時間や場所などにより、この人がとハッとさせられる場合があるので、一面だけを見てそれがその人の人格そのものであるとは限らない。この2本の木を通じて考えさせられたのも散歩の効用だったのかナ。

2010年4月29日 (木)

歴史のロマン

宮崎県えびの市の島内地下式横穴墓群(114号墓)で2008年2月に見つかった大刀をX線調査したところ、龍の文様を銀で象嵌した大刀が出土し、4月23日えびの市歴史民俗資料館で説明会があった。
この大刀は6世紀前半のものとみられ、龍の象嵌を有する大刀の出土は全国で3例目ということである。
1例目は奈良県橿原市の新沢千塚327号墳(6世紀中ごろ)、2例目は奈良市の吉備塚古墳(6世紀前半)に次ぐものらしい。
大和政権と深い関係を示唆しているという。この島内地下式横穴墓群からは、過去にも蛇行剣や甲冑など大和政権とのつながりを示すという遺物が出土している。
島内出土の銀象嵌大刀は全長98.2cm・刃部幅3.6cm・刃部長78.0cmである。象嵌は表裏に一つずつ10cm足らずの龍が、柄のすぐ上の刃の表面に溝を刻み銀をはめ込み出来ている。
今回、銀象嵌大刀が出土した地下式横穴墓は被葬者が5体(熟年男性1人、壮年女性1人、性別不明の熟年1人と小児2人)の家族墓?で、銀象嵌大刀は熟年男性の横に置かれていたそうである。
この銀象嵌大刀は誰でも所持できるものではなく、奈良県の物は古墳で出土しているのに、えびの市では地下式横穴墓での出土、そして家族墓である。今まで宮崎県の平野部で見つかっている首長墓と思われる地下式横穴墓は古墳の下にある単体埋葬のものである。
平野部と内陸部では大和政権との関係がどのようにつながっているのか興味はつきない。
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2010年4月 7日 (水)

「えびの」の赤松

Photo  世界遺産になっている奈良の東大寺は世界最大の木造建築である。
現在、大仏殿の屋根を支える長さ25mの2本の梁(はり)は大虹梁(だいこうりょう)と呼ばれる赤松であるそうだ。
虹の名の由来は梁の中央を少し反らせていることから付いたそうである。
松はヤニを含んで粘り強いので梁には最適らしい。
最初の大仏殿は奈良時代751年(752年大仏開眼供養)に完成したが、戦乱で2度(1180年と1567年)焼失している。

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 2度目の焼失(1567年)から約120年後、1684年に幕府(徳川綱吉)の許可を得て全国的 な事業としての再建が進められている。
しかし、大虹梁となる材木がなかなか見つからなかったのだが、薩摩藩の霧島山中(現在の宮崎県えびの市)に樹高50m以上の赤松2本が存在すると薩摩藩を通じて奈良奉行所に報告があったという。
その後、世界最大の木造建築の梁材として宮崎県えびの市にある白鳥神社境内にあった赤松の巨木2本は切り出され、奈良へ運ばれたのである。

写真 郷土出版社2007年「白鳥の神は神木を生む」『西諸・北諸の歴史 宮崎県の歴史シリーズ』より

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 巨大赤松2本を海路で奈良まで運ぶため、白鳥神社から海辺(鹿児島県霧島市)まで約90kmを運び出すのに延べ日数115日、作業員延べ10万人、牛4000頭を投入したそうである。
鹿児島から海路で大阪に到着し、淀川、木津川を引き上げ、それから毎日2~3000人が繰り出されての陸上輸送で、伐採から8ヶ月後の9月5日奈良に到着したそうである。

このようにして運ばれた「えびの」の2本の赤松は現在まで大仏殿3020トンの大屋根を支えているのだ。

このような歴史の中で、もし「えびの」の赤松が無かったならば東大寺大仏殿の再建はどうなっていただろうと思うと、感慨深いものがある。

2010年3月28日 (日)

弥生の奈良

平成21年度奈良大学の卒業証書・学位記の授与式が3月19日に大学の講堂で執り行われた。通信教育部も通学部、大学院と合同である。自遊人も今年度の通信教育部卒業生の一人であるので卒業式に出席した。

022_3 通学部各学科代表者に続き通信教育部代表に卒業証書・学位記が授与された(写真)。
学長の式辞、理事長の祝辞などがあり1時間程度で式典は終了した。
その後、通信教育部の卒業生は通信教育部棟に移動し、通信教育部長より一人ひとりに卒業証書・学位記が授与された。
通信教育部の卒業生は140人で、出席者は130人程だった。
引き続き茶話会(1時間)があり、卒業式の行事は終了した。


043 翌日、平城宮跡に行ってみた。
平城遷都1300年祭に向けてあちらこちらが工事中であった。
復元された第一次大極殿(写真)もまだ近付けなく、柵の外から見るだけである。
平城宮跡会場は4月24日~オープンらしい。
開催期間中に同窓会が計画されているので、その時を楽しみにしている。
「日本のはじまりの奈良」を合言葉にして始まる平城遷都1300年祭。
この年に奈良の大学を卒業できたことは、自遊人にとっても始まりの年にしたいものだ。